本、絵画、映画と戯れる日々を

本や映画など何かしら作品の感想を書いていきます。

ケムリクサ(2回目)

先日、『ケムリクサ』を見終わりまして(12.1話も!)、色々調べてたら「たつき」さんという監督を知りました!今知ったなんて書くと、にわかなんて言われそうですが、にわかなので許してください...

それはそうと、ぜひ『ケムリクサ』ちらっとでもいいので見てください。特に考察をするのが好きな方にオススメだと思います。そうでない人も楽しめる要素は色々あると思います。僕はオープニング曲が好きでずっと見ていました。

 

たつきさんは『けものフレンズ』の監督ということなんですね。僕はまだ『けものフレンズ』を見たことがないので、「たつき」・「けものフレンズ」というレンズを通すことなく、ひたすら純粋に『ケムリクサ』を見ていたということになるわけですね。

なんか『ケムリクサ』面白くなってきたぞと思ったら、一般的にも評価が良いらしいので調べてみたら上記のようなことが判明しました。

たつき」さんを知っている自分、「けものフレンズ」を知っている自分にはない新鮮さを持って見られたのかな、と思うとなんか嬉しいですね。

たつきさんをこのアニメを視聴する前から知っていたらこの作品をどんな風に楽しんでいたのかなと思うこともあります。しかし、今回書きたいのは以下のことです。

ある新しい何かを知ってしまった時点で、そのことを初めて知る喜びというものはもう味わえない

物語の伏線が見事に回収されていく時の感覚と似ていると思います。一度目の新鮮な感覚を同じ作品で味わうことは二度とないということです。二度目には二度目の良さがあると思いますけど。深く知るほどその作品の良さがわかるわけですからね。ただ、初めて知ることの喜びはいいですよね!

今回でいえば、(作品の内容を知る知らないとは別の観点で)たつきさんを知る前に『ケムリクサ』を見ることができて、フィルターなく純粋に作品を楽しめて良かったということです。このフィルター、自分で取り付けることはできても外すことはできないですからね。

 

安定のグダグダ日記ですが、続けていきましょう。

 

ここからいうことはまだまとまっていない上に、感覚的すぎるのでいつかちゃんと言語化したいですが、

この作品にこのタイミングで出会えて良かった!

というのが時々あって、今回はそれだったということです。もちろん、たつきさんを知っていて、けものフレンズをみていたらもっと細かい部分にも気づいてより深く楽しめるというのはあると思います。でも、誰が作ったとか関係なく、純粋にこの作品を楽しめる機会はいつでもあるわけではありません。深く楽しむのは、楽しもうと思えばいつでも楽しめるので。たつきさんを知らない、けものフレンズを見ていないタイミングでケムリクサが見れたというのは、他人からしたら超どうでもいいことだと思いますが、自分の人生の流れを考えると良かったなというか、そういう流れできてるんだな、次はどこへ繋がるのかな、とワクワクします。

もし誰かにオススメを聞いたときに、これはこの監督さんが作って云々という話を聞いたとしましょう。すると、その会話が頭の片隅にありながら作品を見ることになるので、この監督は面白い作品を作るなぁ、とかこの監督の作品はやっぱりいいなぁ、という感想になりがちです。私の場合はですが。

これとは別に、この作品良かったなぁ、誰が作ったんだろうという感想をもつときもあります。これは、自分の中で新しい何かを発見したことになるんじゃないかなという気がします。自分の好きな対象が増えたという感じですかね。自分の体験からはこっちの方が前者に比べて少ないと思います。特に、読書に関しては著者で選ぶことも多いのでそう感じるのかも知れません。

 

案の定まとまらない。

書いていて思いましたが、きっと多くの人がたつきさんを知っている(と僕は思っているがその)中で自分は知らない状態だったという希少価値のようなものがあるのではと思ってきました。(きっと)無名の作品を、何も知らない状態で見てそれが良い作品だった場合、自分はどう思うだろう?その場合は「見つけた!」と思うような気がする。純粋な状態で楽しめたという気持ちもきっとあるけれど、みんな知らないものを僕は見つけたんだ!という気持ちが強い気がする。

 

なんとなく、思い始めたのが

有名な人の作品をその人が作ったと知ることなく楽しめたら良いな

ということかもしれない。

有名な人の作品であれば、それを堪能する前にその人の作品であることを知っている可能性が高いわけです。そんな中で知らないまま楽しめる機会を得るというのは、その分野に疎いとも捉えられますが、人で見るんじゃなくて、作品で見ることができることができる。それがしたいんだ。

こういうことではないか?たぶん。