本、絵画、映画と戯れる日々を

本や映画など何かしら作品の感想を書いていきます。

『秒速5センチメートル』をみて思ったこと(ネタバレあり)

アマゾンプライムで『秒速5センチメートル』が観れるようになっていたので、衝動的に観てしまいました。3回目くらいですね。定期的に観たくなってしまいます...

胸が苦しくなるのはわかっているのですが、というよりもむしろそれを求めてという感じですね。この作品が好きな方はきっと共感するのではないでしょうか?

今回みて思ったのは、まず3部構成の第2部で『時速5キロなんだって』というセリフを入れた構成が素晴らしいなと思いました。

主人公がこの先忘れたくても忘れられない言葉(とそれに付随する思い出)に縛られ続けるということを象徴していると思います。

『秒速5センチなんだって』という言葉は単なる言葉を超えて何かを持っている。好きだったあの子の今は見れない輝く表情、二度と聞けない声。

 

 

そんなことを思いながら観続けていって思ったこと二つ目、私を苦しめる場面がやってきました。

それは、篠原明里が恋人に見せる笑顔です。もし、本作品と同等の環境に身を置いた時、登場したシーンの笑顔は、かなり稀なタイミングで出会わない限り目にしないはずです。現実世界でそれを目撃したらメンタルが崩壊する気がしますが、アニメでは視聴者として、主人公の遠野貴樹に感情移入している最中にそのシーンがやってきます。これはフィクションとはいえなかなか辛いものでした。

あまり同一作品を何回も観るということはしない僕ですが、胸を締め付ける最も大きな要因がはっきりと分かったということで観た価値はありました。もちろん、風景を楽しんだりもしましたけどね。。。

正直、電車ですれ違った?場面で、電車が通り過ぎた後相手は振り向いてくれなかったことよりも、相手の観るはずのない笑顔を観てしまったことによる、心のダメージの方が何倍も、何十倍も大きかったです。

 

 

最後にですが、『君の膵臓をたべたい』と似ているところがあるなと感じたので、それを記しておきましょう。

それは、表面上の言葉に、ある人との関係をつなぐ唯一と言ってもいいほどの思いが詰まっていることです。それはたとえ事実上関係が断たれた状況でも、あの日交わした君のあの言葉だけが君と繋がっている(過去に確かに、確かに繋がっていたんだという)ことを認識させてくれる自分と相手との見えない糸なのだと思います。

『君の膵臓をたべたい』という言葉は、表面上の言葉だけを見れば単なるサイコパスです。しかし実際には、二人が交わした言葉のキャッチボールの中で生まれたものであり、私が君のことをどれほど想っているかを伝えている言葉なわけです。

『秒速5センチなんだって』という言葉は、転向して会えなくなった二人が桜の木を見て、相手のことを思い出すための言葉です。二人にとっては単なる豆知識とは比べ物にならないほど大切な意味をもつ言葉なのだと思います。

好きな相手に好きな花を伝えておくと、それを見るたびにその人のことを思い出すという話もありますが、それに近いかもしれません。

 

今回は、そんな感じで、『秒速5センチメートル』で程よく心をズタズタにされたというお話でした。この作品はこれからも何度も観ることになるんだろうなー。

『ReLIFE』を観て(ネタバレ注意)

!!題名にもあるように、ネタバレ注意です!!

!!結末などを知りたくない方は引き返してください!!

 

 

端的に言えば、ニートが一年間高校生に戻って人生をやり直すという物語です。

見終わってすぐの今、非常にきれいにまとまった作品だったなという気持ちでいます。主人公がニートになった理由は悲しいことであるものの、深く描くようなことはしていないので、どちらかというと(勉強を除いて...)非常に充実している高校生活でのイベントに目がいきました。きれいなところだけを抜き出して描いているようなイメージなので、それはもう、新品の本棚、出来立ての新築のように、主人公の行動がキラキラと輝いてみえます。お酒飲んだり、タバコ吸ったりしている場面は除いてですけどね。

 

働いているか否かに関わらず、現状に不満があって人生をやり直したい人に向けて描いている作品だと思うことにします。そう思うと、今から後悔しないようにやる気を起こさせてくれる一方、私のように高校生活、特に人間関係で何もできなかった人間が見ると一周回って辛くなる場面もあります。私の場合は、そういう時になるべく辛くならないようにアニメに限らず、小説などの作品で補うようにしています。しているのですが、いよいよ現実世界でまともに動けなくなってくるのではないかと不安に襲われる気持ちがそこそこな頻度で出てくるようになりました。追い詰められる前に病院行くなりしないとですね。

 

いや、今はこの作品の感想を書かねば。

ネタバレ注意と最初に書いたので、ネタバレをすると、最後の場面でこれでもかというくらいきれいなストレートを投げてくるんですね。すーっとボールが飛んできて気づいたらキャッチャーミットにスパンと入ってるみたいな。これは観ていて気持ちよかったですね。

きっと結末を曖昧模糊のまま終わりにする作品も結構あると思うんです。そのほうが読者や視聴者が続きを妄想できるので、作品の幅が広がるという点では良いのかもしれません。あえて、かどうかは分かりませんが、もやもやをスッキリ消し去ってくれる展開も背中を押してくれている感じがして好感が持てます。作品の結末はしっかり与えるから次頑張るのは読者、視聴者の番だよと、勝手ながら感じました。

最後に限らず物語を通して登場人物は良心的な人ばかりなので、優しい世界を感じたいという人がいれば、息抜きに観るのも良いと思います。

 

個人的には、ヒロインの日代千鶴がいいキャラクターだと感じました。あのストレートな物言い(特に序盤)、できるものなら真似してみたいです。いや、本当は直すべきところとして描かれていたのかもしれないし、実際に人と話す時は気をつけないといけないのかもしれないですが、遠回しに言われるよりはストレートに言われた方が伝わるんじゃないかと思うところもあります。それは、自分が相手の気持ちを読み取る力がないからかもしれません。場合によっては遠回しに伝えるのも日本語の魅力の一つだとも思うのです。難しいですね。日代千鶴のように、頑張らないといけないのかもしれません。

あと、この作品で特徴的なものといえば、EDが2000年代くらいのJ-POPにおけるベストセラーを用いていることですね。1話ごとにその場面にあったEDを流してくれるので、良き良きと思って観ていました。流すタイミングもバッチリです。ストーリーの組み立てがうまいというのは、こういうことをいうんでしょうか。よく分かりませんが、良かったです。一番好きなEDは久保田利伸の『LA・LA・LA LOVE SONG』です。鳥肌立ちました。

 

ちょっとだけ疑問点というか、気になってしまったところを書きます。これはこのアニメに限らずなので大したことではないのですが、記憶を忘れるプロセスってどうなっているのだろうと、観ながらぼんやりと考えていました。

よくある設定だと思いますが、あるタイミングで、主人公以外が主人公の存在を忘れてしまうみたいなやつです。あれって、どうやったらそんな状況が実現できるのだろうと。しかも今回は主人公が薬を飲んでいるから主人公が忘れるならまだしも、薬を飲んだ張本人は覚えているけど、その周りの人が忘れるっていう...改めて考えると不思議。最後の最後、お互いの思い出を思い出すのでなおさら思い出せるということは、完全に消すわけでもないだろうから...嬉しい展開だったけど不思議なものだな〜と。

 

邪推した余計なことをここにこれ以上書くのは気がひけるのですが、設定について考えを巡らせるのも楽しいのかもしれませんね。

私がアニメを観る時はだいたいストーリーと音楽に注目しているのですが、何を観るかというのも人それぞれでそれについて話をするのも面白そうですね。

きっと絵を描くのが好きな人やアニメーションに携わっている人は、作画やアニメーションや、技術的なところにも目がいくと思うので、深く作品を楽しめることができそうですよね。

考察好きな方も考察のしがいたっぷりの作品に出会えたらそれはもう水を得た魚のごとく頭をフル回転させるのでしょうね。私は考察をしながら観ることはあまりなくて、むしろ考察している人のその考察を読んで、すごい詳細に追っているなと感心ばかりしています。

他にも、この登場人物のここがいい!とか、このセリフがお気に入り!とか、自分の好きなことを熱く語れる人が羨ましい限りです。

 

さて、今日はこの辺で筆を置くことにしましょう。

ついにきてしまった...推しの引退...

 私もついに推しの引退を体験することになった。なってしまったよ。しかも、突然の引退...辛い

最近は配信をしてそれを観るのが普通だったから、ある日突然、もう配信しなくなるという事実を目の前に突きつけられると、世の中無常であることを感じる。というか、感じざるをえない。

その知らせを知った時、一瞬何を言っているのか分からなかった。

その時の心境は、嘘だろ、えっなんで突然...、いや、、、でもついにきたのか...という感じだ。

いつか引退する人が出てくるとは思っていたし、歌の道を歩んでいたはずの蒼月エリさんが引退しそうな気はしないこともなかったけれど、正直もうちょっと先かと思ってた。1周年はしてほしいなと思っていたが、その願い能わず。

ただ一つ言えるのは、推しを推せる時に推しておいてよかった。ということ。

『青い蝶』も購入して聴いている。この曲に出会えて、もっと言えば、エリさんが活動しているうちに出会えて、生配信で聴く機会もあって本当によかった。

蒼月エリさんが活動していた間、楽しい時間を過ごすことができて嬉しかった。いつかまた、蒼月エリさん(の中の人)の歌声が聴ける日がくることを願ってやまない。

 

 

ここからは邪推したことを色々と書きますが、どうか気を悪くなさらず。

蒼月エリさん引退を知るまでの流れとして、前日にコラボ配信がドタキャン、当日のハニストの配信も全て中止、となっていた。前日のコラボ配信の中止は機材トラブルと言っていたのでもしかしたら本当にそうかもしれないが、きっとこの時にはすでに引退について話し合いが始まっていたのかもしれない。そもそもコラボ企画なのだからいつも以上に準備はしっかりするはずで、そんな簡単に中止になるはずがない。改めて中止のツイートを見るとエリさん、すごいかしこまった文章を打っていた。今思えばだが、なるほど、これは引退するんだ、と分かる文章だった。orz

当日の朝も、その日の配信が全て中止という知らせを受けて、今までそんなことが一度もなかったので、昨日から何かおかしいなと思ってはいた。まさか、メンバーの引退だとは思ってもいなかった。今思い返してみると、それくらいしかないだろ...とも思えるが。

他のメンバー、マネージャーのツイートから推測するに蒼月エリさんの引退は急に決まった。ここからは完全な妄想であるので話半分で読んでほしいが、きっと何か新しいことを始めるのだと思う。何かオーディションに受かったとか、新しく音楽グループで活動することになったとか、もしくはそれに近いようなことがあり、蒼月エリさんのところへ連絡が渡ったのが最近で、もうすぐ始動するからそちらへ専念するために急遽引退することになったのだと思う。そう思うと、メンバーやマネージャーの方々も急に知ったということに納得がいく。

あくまで主観的な考えに基づくが、引退の2日前に(メンバーやマネージャーに)引退することを打ち明けるというのは、自分勝手がすぎる気がする、まあ気がするだけだが。私は単なるいちリスナーなので振り回されるのは承知の上なのでいいが、メンバーにもとなると、えっそんな人間だったのか?と思ってしまった。しかし、そう思いたくないので先ほど書いたように、きっと急に何かが決まり、急にやめなければいけなくなったということなのだと思いたい。また、引退することを打ち明けるのはすごい勇気が必要なことだと知ったので(これまた八朔ゆずの引退配信で)、直前になってしまうのも仕方ないことなのだと思うようにもなった。仮に自分に置き直してみると、引退しようと思っているなんてメンバーにいつ言ったらいいのか分からないし、きっと直前まで言えない。。。自分勝手というよりは、普通はそうなるものなのだと思えてきた。

 

配信を見ているとVtuberというものは、歌の上手い人、絵が上手い人、ゲームが上手い人、話が上手い人、声優みたいに綺麗な声をしている人など、何かとんがった、もしくは秀でた人たちの集まりだと思う。中には、これを踏み台に目指している舞台に飛び立つ人もいるかもしれない。だから、引退は頻繁に起きるものだと思っている。(実際には採算が取れずにやめていってしまう人が多数いると思うのだが、今回はそれとはまた別のお話)蒼月エリさんがこの活動を通して、今度は(今度こそ?)歌手になろうとしているのであれば嬉しいです。

配信を見ている限りでは、配信したくないという状況ではなかったので、きっと歌の世界に進んでいくのだろう。そうすれば、私も蒼月エリさんの歌を聴く機会があるかもしれない。ただ、そのときは蒼月エリではないので、誰だか分からないのであるが、もし偶然見つけたら運が良かったということだと思う。

色々と書いてすみません。

 

今はただただ蒼月エリさん(の中の人)を応援しています。

 

推しは推せる時に推せ。

この言葉を事前に知っておいて良かったです。僕がいうのもおかしいですが、蒼月エリさんの引退について後悔はありません。

強がってそう書きましたが、それでも悲しいものです。推しの引退ですからね。

桜の花が散ることについて妄想してみた

桜の花が散る様子は美しい。多分、多くのは人はそう思うだろう。

くだらないことを考えていたのでちょっと書いておく。

満開の状態から花が散っていく時が、花見の最高潮だと私は思う。最高潮を過ぎて、いつぐらいまで人は桜の花を見るだろうか。ほとんど散っていてもまだ花が残っているなと気にかけたりするものだろうか。僕はほとんど気にかけたことはなかったが、今年は実際にわざわざ確認しにみにいくことはないにせよ、あの木の桜の花、最後に散るのはいつだろうなんて考えてしまう。それが取るに足りないことであるにせよ、面白い感性を持っていると前向きに捉えることにしよう。

桜が散る時の美しい様子を例えるならば、

人生でいえば20代であり、

イチローでいえば、シーズン最多安打を記録した時期である。

こう考えると、なるほど美しいわけだと納得もいく。感覚的な話ではあるが。

では最後に散る花びらは言葉はあまりよくないが死ぬ直前ということになる。きっと誰もみていないだろうと私は思うのだが、よっぽど桜が好きな人は花がほとんどなくなった時期でも桜をみているのだろうか。ほとんどの人が目を向けていないところにあえて注目してみたいとひねくれたことを考えてみた、というのが今日の話だ。

例えば、ある公園にある桜の木で最後の最後に散る花びらをみたとすると、それはくだらないかもしれないが、その公園の桜の木から全ての花が散った瞬間に立ち会ったことになる。なんかいいシチュエーションだなと僕は思ったのだが、共感してくれる人がいるか気になる。いなそう。

ケムリクサ(2回目)

先日、『ケムリクサ』を見終わりまして(12.1話も!)、色々調べてたら「たつき」さんという監督を知りました!今知ったなんて書くと、にわかなんて言われそうですが、にわかなので許してください...

それはそうと、ぜひ『ケムリクサ』ちらっとでもいいので見てください。特に考察をするのが好きな方にオススメだと思います。そうでない人も楽しめる要素は色々あると思います。僕はオープニング曲が好きでずっと見ていました。

 

たつきさんは『けものフレンズ』の監督ということなんですね。僕はまだ『けものフレンズ』を見たことがないので、「たつき」・「けものフレンズ」というレンズを通すことなく、ひたすら純粋に『ケムリクサ』を見ていたということになるわけですね。

なんか『ケムリクサ』面白くなってきたぞと思ったら、一般的にも評価が良いらしいので調べてみたら上記のようなことが判明しました。

たつき」さんを知っている自分、「けものフレンズ」を知っている自分にはない新鮮さを持って見られたのかな、と思うとなんか嬉しいですね。

たつきさんをこのアニメを視聴する前から知っていたらこの作品をどんな風に楽しんでいたのかなと思うこともあります。しかし、今回書きたいのは以下のことです。

ある新しい何かを知ってしまった時点で、そのことを初めて知る喜びというものはもう味わえない

物語の伏線が見事に回収されていく時の感覚と似ていると思います。一度目の新鮮な感覚を同じ作品で味わうことは二度とないということです。二度目には二度目の良さがあると思いますけど。深く知るほどその作品の良さがわかるわけですからね。ただ、初めて知ることの喜びはいいですよね!

今回でいえば、(作品の内容を知る知らないとは別の観点で)たつきさんを知る前に『ケムリクサ』を見ることができて、フィルターなく純粋に作品を楽しめて良かったということです。このフィルター、自分で取り付けることはできても外すことはできないですからね。

 

安定のグダグダ日記ですが、続けていきましょう。

 

ここからいうことはまだまとまっていない上に、感覚的すぎるのでいつかちゃんと言語化したいですが、

この作品にこのタイミングで出会えて良かった!

というのが時々あって、今回はそれだったということです。もちろん、たつきさんを知っていて、けものフレンズをみていたらもっと細かい部分にも気づいてより深く楽しめるというのはあると思います。でも、誰が作ったとか関係なく、純粋にこの作品を楽しめる機会はいつでもあるわけではありません。深く楽しむのは、楽しもうと思えばいつでも楽しめるので。たつきさんを知らない、けものフレンズを見ていないタイミングでケムリクサが見れたというのは、他人からしたら超どうでもいいことだと思いますが、自分の人生の流れを考えると良かったなというか、そういう流れできてるんだな、次はどこへ繋がるのかな、とワクワクします。

もし誰かにオススメを聞いたときに、これはこの監督さんが作って云々という話を聞いたとしましょう。すると、その会話が頭の片隅にありながら作品を見ることになるので、この監督は面白い作品を作るなぁ、とかこの監督の作品はやっぱりいいなぁ、という感想になりがちです。私の場合はですが。

これとは別に、この作品良かったなぁ、誰が作ったんだろうという感想をもつときもあります。これは、自分の中で新しい何かを発見したことになるんじゃないかなという気がします。自分の好きな対象が増えたという感じですかね。自分の体験からはこっちの方が前者に比べて少ないと思います。特に、読書に関しては著者で選ぶことも多いのでそう感じるのかも知れません。

 

案の定まとまらない。

書いていて思いましたが、きっと多くの人がたつきさんを知っている(と僕は思っているがその)中で自分は知らない状態だったという希少価値のようなものがあるのではと思ってきました。(きっと)無名の作品を、何も知らない状態で見てそれが良い作品だった場合、自分はどう思うだろう?その場合は「見つけた!」と思うような気がする。純粋な状態で楽しめたという気持ちもきっとあるけれど、みんな知らないものを僕は見つけたんだ!という気持ちが強い気がする。

 

なんとなく、思い始めたのが

有名な人の作品をその人が作ったと知ることなく楽しめたら良いな

ということかもしれない。

有名な人の作品であれば、それを堪能する前にその人の作品であることを知っている可能性が高いわけです。そんな中で知らないまま楽しめる機会を得るというのは、その分野に疎いとも捉えられますが、人で見るんじゃなくて、作品で見ることができることができる。それがしたいんだ。

こういうことではないか?たぶん。