生きる上で大切にしたいことが見つかる名著『論語と算盤』(1章〜5章要約、感想)
6~10章の分はこちら。
1章 処世と信条
- 士魂商才は論語で養える
徳川家康の統治の仕方を例として挙げている。論語は実用的な教え。
- チャンスを待つこと
物事には原因と結果がある。途中で無理やり結果を変えようとしても争いになってしまう。成り行きを広く見渡し、気長にチャンスが来るのを待つのが大事。
これはチャンスを掴めるだけの準備はしていることが前提にあっての話だと思った。
- 人には平等に接する
適材適所を行う人間の背後には時として企みが潜んでいる。例えば自分の権力拡大に利用することがある。渋沢栄一が望んだのは、人が国の発展に貢献するために適材を適所に置くことだった。
これは配置される側も意識していると配置する側との信頼関係が深まる気がする。
- 成長のための争いを、後輩が成長するための指導を
理由のない争いはしないが、敵と争ってこそ成長が望める。争いに勝ってやるという気概を持たなければ成長は望めない。
後輩の指導には2種類ある。厳しく接する人と優しく接する人だ。本当に後輩のためになるのは、厳しく指導に当たる人ではないか。優しく接していると後輩の奮発心を損なわせているかもしれない。
後輩をガミガミとせめて揚げ足を取ってやるくらいの先輩の方が後輩は油断しなくなる、と書いてあるがそれは違うと思う。個人的には余計にやる気が削がれるだけというか、揚げ足ばかり撮ってる上司がいる職場なんて今時ブラック企業そのものだと思う。
- 逆境を受け入れて進む
逆境には2種類ある。一つは自分ではどうしようもできない逆境だ。この逆境はそれが自分の本分であると受け入れるしかない。そして自分を修練するのみ。
もう一つは人の作った環境だ。これは大体が今までの自分の行いによるものだから、行いを反省して、こうしたいという目標に向かって本気で頑張る。
- 自分を磨く
生活の些細な場面でも自分を磨くチャンスと思って実践する。そして己を知る。欲望のままに振舞っても羽目を外さない。渋沢栄一は「何事も誠実さを基準とする」ことを主義としていた。
羽目を外さないってのが一つのポイントだな。自分の中に基準があってこそ、そのラインが見えてくると思う。渋沢栄一は「誠実に振る舞うこと」を基準にしていたのだな。
- 調子になるのは良くない
結果が出て調子の良い時と、そうでない調子の悪い時がある。調子の良い時におごり高ぶってはいけない。対処法は「大きなこと、些細なことに対して同じ考え、判断で臨むこと」である。
なるほど、確かにこの対処法さえ持っていれば少なくとも調子の良い時も調子に乗るなと意識することはできるな。何をもって判断するか、ということ自体をよく考えないとね。
第2章 立志と学問
- 精神の向上には強い信仰が必要
- 自ら箸をとれ
些細なことを全力で真面目に取り組めない人は、その先出世しない。豊臣秀吉が成功したのはここにある。些細な仕事でも大きな仕事の一部なのだから誠意を込めて取り組むべきだ。
- 大きな志は長所短所を考察し、自分の最も得意とするところに向かって進むのが良い
体力、知力、金銭力などいろんな面で確かな見込みが立った上で大きな志を確定させると良い。根幹に据える志が決まったら枝葉となる小さな志を決める。小さい方は常に変わりながら存在するものだが、大きな志からはみ出ていないか確かめる。
- 信念を持っておけ
成果を焦って大局を見るのを忘れ、目先の出来事にこだわってわずかな成功、失敗に一喜一憂する人が多い。これではいけないのだが、信念を持っていればこういうことに陥らずに済む。
渋沢栄一は30くらいで実業界の人になるという志を立てたが、もっと早く決めていればと悔いている。難しいと思うが見当違いな志は早めに改められたら良いなー。
3章 常識と習慣
- 常識とは言葉や行動が全て中庸にかなうもの。知恵、情愛、意志の3つがバランスを保って均等に成長したもの
知恵が発達していないと物事を見抜く能力、善悪を見抜く力が不足する。それでは学問を修めていても宝の持ち腐れになってしまう。知恵があっても情愛がないと自分の利益だけを考え極端な行動に走ってしまう。悪知恵が働くというやつかな。情愛を持っていてもそれは感情に流されやすいという欠点をもつ。感情を制御するのに意志が必要である。意志が強すぎてもそれでは単なる頑固者にしかならない。
具体的な行動自体は時代によって善と悪変わるかもしれないが、上記の常識に対する考え方自体は時代によらず変わらないものと思って良い気がする。
- 憎しみながらも相手の美点を知る
何度でも書くが渋沢栄一は国の発展を実業界から進めることを第一に考えていた。そのため、自分の利益しか考えていない人が訪ねてこようともその人が社会に貢献する方法を考えるようにしていたようだ。
- 良い習慣を身につける
習慣は心にも影響を与え、人格さえも形成する。他人に感染するから注意。
他人に感染するということは、自分も他人の習慣を真似したがるということ。悪い習慣は真似せず、良い習慣は真似しても良いかもしれない。
悪い習慣は「自分に克つ」という心を持って引き締めなけばならない。そうすれば治る。
- 世の中、志よりも振る舞いで判断されがち
いかに志が良くても、その振る舞いが良くないと世間からは除け者にされる。反対に志が悪くても、振る舞いさえ良ければ周りから評価されやすい。
渋沢栄一は志をどう持つかということについては他の文でこれでもかと説いているので、ここでは振る舞いも志に準じたものでなければせっかくの志も活きないということを言ってるのだろう。
- 勉強するのと同時に普段の生活からも学ぶ心を忘れずに
知識は普段の勉強で身につけるとして、それを実践に結びつけるには一生をかけて行う必要がある。怠けずに生きなさい。
- 物事を判断する時は頭を冷静に保って自分を見失わないようにする
常識に照らし合わせながら自問自答して答えを出す。すると正しい立場に近づき、間違った立場から遠ざかることができる。
4章 仁義と貧富
- 物事を発展させたいという欲望とこれを実践していくための道理をバランスよく持つこと
道理とは私利私欲に走らず思いやりを持つことである。
- 真っ当な生き方によって得られるならば、どんな賤しい仕事についても金儲けせよ。しかし、真っ当でない手段を取るくらいならむしろ貧賤でいなさい
高い道徳を持った人物になりたければ金儲けなどしようと思ってはいけない、というのは学者の誤解である。
- 自分が立ちたいと思ったらまず他人を立たせてやり、自分が手に入れたいと思ったらまず人に得させてやる。
富を手にすればするほど貧しい人のための事業に乗り出すのは当然のことだ。
- 真っ当な富は、正しい活動によって手に入れるべきものである。
お金を求めるのは賤しいという考えは改めて。
- お金をよく集めよく使う
金遣いが荒い人間になってはいけないし、守銭奴になってもいけない。
私が思うに、若いうちは特に知識や経験を身につけるためのお金は積極的に使っていったほうが良いと思った。そうでないと何も身につかないから結局将来的にお金が入ってこないことになる。多少お金を使ってもその分覚悟を持って取り組んだ方が良い人生になると思う。
5章 理想と迷信
- どんな仕事でも「趣味」(自分からやる気を持って、理想や思いを付け加えて実行していくこと)を持って取り組むのが大事
一人前の「趣味」を持って、その「趣味」のレベルを上げていけばそれに見合った成果がもたらされるようになる。「趣味」のある行動であれば、その仕事に心がこもるに違いない。
- 1日を新たな気持ちで
全てが形式的になってしまうと精神が先細りしていく。
まとめ
全体を通して、
- 自分を磨く
- 知識と実践をバランスよく
- 信念を持て
あたりの主張が軸にあると思った。その信念の部分を渋沢栄一は論語に求めたということだ。今度は論語を読んでみたい。調べてみるとネット上にも著作権の切れたものが整理されているのを見つけた。よし読むか。
生きる上で大切にしたいことが見つかる名著『論語と算盤』(6章〜10章要約、感想)
6章 人格と修養 (自分を磨く)
- 学問と実学、バランスよく身につけること。
- 極端に偏っては自分を磨くことはできないし、国単位で考えると国は発展しない。
- 精神、知恵、知識、身体、行い全てを向上させるのが自分磨き
んー、その学問は現実でどのように役立つのか、逆に現実をもっとこうしたいというのがあったらどんな学問を学べば実現できそうか、どちらに取り組むときももう一方のことを意識しながら取り組みなさいということだろうな。このままでは頭でっかちなので、具体例を考よう。例えば、VRって面白そうな技術だし勉強してその仕組みや使い方を知りたい、と思って勉強するだけでは学問だけしか考えていない。現実に落とし込むことを考えると、実際にVRを新人研修で使えるかも知れない、そのためにはこういう機能がほしい、こういうアプリケーションがほしい、という視点が加わる。こういうことを言ってるのだと思っているが、合ってるかな。。。
これは自分で見つけるものなのだろう。色々あるので何を軸にするかは悩ましいがやはり現代まで生き残っている古典から見出すのが良いと思っている。まずは渋沢栄一に倣って儒教を柱としようと思う。そのためにこの本を読んでいるのだから。
- 素晴らしい人格をもとに正義を行い、正しい人生の道を歩み、その結果豊かさや地位などを手に入れること。これが成功なのであり、目的のために手段を選ば図に手に入れた成功は真に成功とは言えない。
この精神が確立している人間が目移りしない人間なのだろう。私は富や名声、地位などに目が行きがちで、その人がどんな人かまで見ないことが多いかもしれない。ここでこの精神を学んでこの人はこういう考えのもと行動してきて今の結果がある。だから尊敬する、と思えるように修養したい。
逆もまた然り。成功しているように見えるが、私の信念とはちょっと違うなと思ったらそういう人もいるのだ、と思えるようにしたい。今の世の中、情報が溢れていて、いろんな価値観が目に飛び込んでくるので、何も持っていないと溺れて流されるだけなのだろう。本当に正しい軸が身についたら、きっと受け入れるべき価値観とそうでない価値観が自分の中で明確になるはずだ。自分の考え方が全てとはならずに、むしろどんどん多様な価値観を受け入れるようになるのだと思う。
7章 算盤と権利
結局言ってることは同じだけど、表し方が真逆というのが面白い。
- 孔子は奇跡が一つもない点で信頼できる。キリストには奇跡がたくさんある。
人間の守る道としては上記の理由から孔子の教えの方が良いと渋沢栄一は思っているようだ。出ないと迷信に陥ってしまうのではなかろうかと述べている。渋沢栄一の中では教えの中に奇跡がないことがその教えを信頼することにつながっていたのだな。人の能力を超えたエピソードが宗教に必要なのもわかるが、一方で現実的に信頼するという観点からは儒教のような実学よりのものが良いのかも知れない。
- 富める者と貧しい者がいるのは国を豊かにすることを考えると自然な成り行き。両者が思いやりの心を持って接することで同じ方向を向いていける。
資本家と労働者の関係は、法よりも思いやりの心で結ばれると良いという話をしているが、私の感覚だと法というものが前提にありながら両者で思いやりの心を育んでいくというスタイルが合っているように思う。合ってるかわからないけど。。。
- 一個人の利益になる仕事よりも、多くの人や社会全体の利益になる仕事をすべきだ
事業を行う上で渋沢栄一が見識としてきたもの。
- 書物を著したとしても、それを多数の人が読むようなものでなければ効果が薄い。著者は常に自分のことよりも、国家社会を利するという考え方で筆を取らなければならない
福沢諭吉の言葉を引用していた。耳が痛い。。。このブログも国家まではいかずとも、読んだ人が利益となるような文章を書いていけるように頑張りたい。
8章 実業と士道
- 正義、廉直、義侠、敢為、礼譲
これら武士道はよき習わしを足していったもの
これは商業でも同じはずであるが、江戸時代の悪い名残が取れず道徳観を持たないままの人が多い。(利益に走りがち)
- 外国の模倣ばかりを盲目的に行うのは良くない。
何が良いかは国によって異なるのだから。ただ、今のグローバル化を考えると世界に照準を合わせつつ、その上で日本の武器は何かを考えるという感じが良いのだろう。
- 「信用」こそ全ての元。商業道徳の要。
江戸の時代がそうで合ったように、最初の代の人が正しいものを理解して実行していても、代を重ねるにつれ質が低下し、だんだんと形骸化していく、道徳がなくなっていくのだな。きっと今の時代も同じだ。
9章 教育と情誼
- 孝行は親ができる環境をつくる。子供にさせるというスタンスはいけない。
当時の教育は(現代はなおさら)知識ばかりで道徳が身につかない。国が変えない限り、自分で気づくか周りがそれに気づく環境を作らなければならない。
女性の教育は今日も継続して叫ばれている。教育という意味では比較的改善されてきたと思うが、社会での地位獲得は世界と比べてまだまだ。改善の余地あり。
10章 成敗と運命
- 仕事の中に楽しみと喜びを見つける。
そして仕事内容の充実を図る。形式も疎かにしてはならない。これができない人もいるが、どんな人にも憐れみの情、良心、思いやりの心を持って接すること。
世の中うまくいく人うまくいかない人がいる。これは
- 人事を尽くして天命を待つのみである。
逆境、順境、という言葉は本来はないと思っていい。現在の状況は自分が取り組んできた結果として現れているのである。ただ、本当に立派で努力家で道徳心も持っていてもうまく行かない人もいる。この場合にだけ逆境という言葉を使う。
- 細心にして大胆であれ
成功、失敗という軸で生きるな。誠実に努力し続けろ。成功や失敗は、ことをなした結果ついてくるカスのようなもの。本質を見ろ。
とりあえず近いうちに聴きたい合唱曲を調べてみた。
これまでにアニメと映画について、みたい作品を書き連ねる記事を書いたが、今回は音楽編である。範囲が広すぎたので、まずは合唱に絞ってみていきたい。
私の音楽経験
ピアノを小学校から中学校にかけて5年間くらい?細々と続けていた。唯一弾ける曲が「渚のアデリーヌ」ということで色々察してほしい。ただこの曲は素晴らしい。
あとは、合唱を少しだけ嗜んでいた。合唱でハモりというものの素晴らしさに出会えたことは貴重な経験だったかもしれない。
ということで?合唱から調べることにした。
Wikipediaに音楽ジャンルの一覧という今回の記事にぴったりのページがあったので、今後は気になったジャンルをこのサイトで見つけてそのジャンルの代表曲を調べるという手順でシリーズ化していくつもり。
合唱
日本の曲ばかりだけど、歌ったことのある曲も中には入っているが有名どころをピッうアップしてみた。きっと有名どころで抜けているものも多数あるが、ご容赦いただきたい。
パナムジカのサイトを参考にした。
「マタイ受難曲」:バッハが作った神曲と合唱をしている時に聞いた。
「群青」
「水のいのち」
「夜明けから日暮れまで」
「合唱のためのエチュード」
「心の四季」
「今、ここに」
「燕の歌」
「明日へ続く道」
「おらしょ」
「夢の意味」
「鴎」
「あさきよめ」
「蔵王」
「しあわせよカタツムリにのって」
「良寛相聞」
「ひとつの時代」
「みやこわすれ」
「旅」
「土の歌」
「交聲詩 海」
「くちびるに歌を」
「Salve Regina」
どうせ詳しく知らないので、合唱コンクールや合唱祭を聴きに行くというのも好きな曲を作る有効な手段であることを最後触れておいて終わりとしたい。
次は、ピアノ曲を調べるぞ。
日常系サスペンス??『花とアリス殺人事件』
基本的な情報(Wikipediaより)
この作品は、岩井俊二監督の作品『花とアリス』の前日譚である。『花とアリス』自体は2003年にネット配信された作品であり、それを元に2004年に実写映画化されている。そして今回観た作品『花とアリス殺人事件』は2015年にアニメ映画化されており、以下のような評価を受けている。
2015年アヌシー国際アニメーション映画祭の長編コンペティション部門正式出品、第19回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞受賞作品。
あらすじ
両親の離婚により石ノ森学園中学校へ転校してきた有栖川徹子。クラスメイトのよそよそしい態度に不機嫌になる徹子であったが、昔通っていたバレエ教室の友人風子との再会し、一年前に学校で起こった奇妙な事件を知る。なんとユダが4人のユダに殺されたのだという。その謎の真相を確かめるべく乗り込んだのは徹子の隣の家。そこは当時事件が起きたクラスの生徒だった荒井花の住む家だった。果たして二人は真相に辿り着くことができるのか。
感想(ネタバレ)
細かいところまで作り込んでいるなと感じた。味わい尽くせたとは言い切れないが、いくつか感想を述べたい。
一つはスロー再生の使い方である。最初の方で徹子が二階から落ちる場面、最後の方で父親を追いかけて走る場面、その直後歩きから走りに変わる一連の流れなど体の動きが映える場面でその動きをじっくり堪能できることがこの作品の醍醐味であった。
次に徹子の家のインテリアである。絵や時計など所狭しと飾られている。それでいて、ものが溢れている感じもあまりなく絶妙な加減であった。四角い額縁から、丸い額縁、少し凝った形のものまで大きさ、種類が様々でこういうのを好む人が作ったのであろうかと想像が膨らんだ。ちなみに人形もたくさん飾ってあった。母と徹子どちらの部屋もぬいぐるみや写真で彩られていたので二人とも好きなのだろう。私だったらVTuberと印象派の絵で埋めたいと思う。異色の組み合わせかもしれないが個人的にはありだと思う。
教室の雑多な演出もリアリティがあり、また背景や人物の動きにアニメ特有のデフォルメが少ないのは、モデルの動きをカメラで撮影してそれをトレースする手法である「ロストスコープ」の貢献が大きいのかもしれない。
音に関してもいくつか好きな場面があったので紹介しよう。
まず徹子が自己紹介で黒板に名前を書く場面。カツカツではなく、コツコツコツというこもった低めの音が心地よかった。
あとは、リコーダーのBGMが音楽の授業とつながっていたり、ダンス教室で使っていた音楽がそのままBGMにつながったりという演出も好きだった。
あとは登場人物の声について。独特な個性を持った人物が登場し、風子のフニャッとした声や花のかっこいい低音ボイスには初めは驚いたものの、慣れてくるとその人物を表すトレードマークみたいに感じられる。
BGMがなくセリフだけの場面も比較的長い気がして不思議とその場面に引き込まれる感覚がした。
最後にコミカルな雰囲気について。題名とは似ても似つかないほど終始シリアスな雰囲気がなく、コミカル全開の作品だった。全開とはいえ、常に全力で笑わせにくるというのではなく、例えるならば鹿威しのように、ある程度の間を置いてコツンコツンと笑いのツボを刺激してくる感じだ。
一つ場面をあげると、ユダの父を追いかけているつもりで全く違う人を追いかけ続ける徹子が、タクシーに乗ったユダの父(と思ってる人)をタクシーで追いかける一幕があるのだが、お金がなくなり途中で諦めかけたところ家を出たきり帰ってこなかった父を追っているとタクシー運転手に嘘をつく演技の嘘っぽさが絶妙にうまくて思わず笑ってしまった。
他には、風子のバレエ教室を見学した日の夜中、バレエを踊っていたところを母に尋ねられる場面で、見られたくないものを見られてしまった時の徹子の声になっていない声。この場面も好きだ。
物語の最後にはユダと花が再会し、会えたというだけで花的にはハッピーエンド?だったようだ。好みは分かれるだろうがとりあえずハッピーエンドで終わったのも個人的には良かった。ただ、この作品は「花とアリス」の前日譚ということなので、そちらがどんな作品なのか見てみたい。
あとがき
感想を書くことを前提に、素人なりに細かいところまでじっくり見て、メモを取りながら見ていたのだが、なかなか大変でもあり、楽しくもありました。じっくり観るにふさわしい作品であったことは間違いなかったように思います。
登場人物の名前も凝っていて、有栖川徹子の前の名字が黒柳だったり、陸奥睦美という名前もユダに取り憑かれたという雰囲気に合ってる気がするんだよなー。陸奥睦美がユダの幽霊に取り憑かれた場面は、二週目観るときに必見の場面です。あれを演技でやったというのだから、役者になった方が良いくらい笑。いじめられていたというのが大きな原因であるわけだが。
ここからはVTuberを知っている人にぜひ見てもらいたい。それ以外の人は何を言ってるのかわからないと思うので無視してください。もし気になる人はYouTubeで「にじさんじ」、「まりなす」と検索してみてください。VTuberがどんなものか分かると思います。
この作品に出てくる人物でこれは誰々に似てるなと思ったことがあったので紹介します。気になった人がいたらぜひ確認してほしい。今の時期はアマゾンプライムで観れると思います。
今回は「にじさんじ」と「まりなす」のメンバーが登場します。最初に断っておくと、常に似ていたということではなくて、その人物のある一場面が似ていました。
まずはまりなすから音葉なほ。風子が学校での事件を説明する場面。16分すぎあたり。「殺したのもユダ」というセリフがなほちゃんそっくりだと思った。その前のセリフ「あのね、学校でね、一個上の男子が死んだの」もなかなか可笑しい。人が死んでなさそうな口調で言われてもな〜、ん〜もどかしいっ!、と心の中でつぶやきながらで聞いてました。なほちゃんが真似したら絶対めちゃくちゃ似るのでいつかの配信で真似をしてみてほしい。そもそもバレエを習っているという設定からしてなほちゃんに似ている。
続いてにじさんじから樋口楓とまりなすから鈴鳴すばるの二人。それぞれに似てる場面があるので紹介。
まず樋口楓に似てる場面から。
11分あたり、風子と再会する場面。樋口楓っぽいし、声も似てる。22分すぎ、ヤンキーっぽさを出した時の樋口楓に似てる気がする。
続いて鈴鳴すばるに似ている場面。
まず足が速いのが鈴鳴すばると同じ。
42分からの一連のセリフ、振る舞いが鈴鳴すばるっぽい。特に、46分あたりの「あたし行かないよ」ってセリフ、すばる様がふざけて言いそうな気がした。そのあとのふざけっぷり、ドジっぷりもすばる様が演じていたら面白いだろうなーなんて不覚にも思ってしまった草。あとは、私の勝手なイメージだが、花とユダの再会の場面でユダに声をかける場面、誰にでも絡んでいけるすばる様っぽいイメージと一致していた。ここは樋口楓っぽさもあるけどね。
そもそも樋口楓と鈴鳴すばるが同じような性格だったかもしれないなと、今記事を書きながら気づきました。
これから先、いろんな作品を見る時もこれVTuberの誰々に似てるとか、思いながら見ることになるのかな。。。良いのやら悪いのやら。。。
あっ、ちなみにで書くことではないが、記事の題を「日常系サスペンス??」と書いた。日常系ではあるのだけれど、子供特有?の緊張感ある、でも警察沙汰にならないくらいの彼らだけの非日常(ちょっとした冒険)を上手く表現した作品であると思う。
一歩踏み込んで(関連情報)
アヌシー国際アニメーション映画祭
アヌシーとはフランスの都市名である。リヨンの東、ジュネーブの南という位置にある。
アヌシー国際アニメーション映画祭には、長編部門、短編部門、学生部門、テレビ部門、広告部門がある。1960年にカンヌ国際映画祭からアニメーション部門を独立してできたものである。
日本の作品について主なグランプリ受賞歴を載せておこう。(Wikipediaより)
短編部門
長編部門
広告部門
- 「Tissue Animal」:新井風愉、2014年
グランプリ以外の主な受賞歴(私がみたことのある作品)
「時をかける少女」(特別賞)
「この世界の片隅に」(審査員賞)
今まで全然知らなかったのが悔やまれるが、日本の受賞作品をみるにきっと海外の作品も素晴らしいに違いないと思われる。このアヌシー国際アニメーション映画祭で賞を受賞している作品を海外アニメの入り口としてみるのは、作品の質が高そうという面からしても良いと思う。もちろん、ディズニーやピクサーなどを入り口にしても良いと思うが。
僕としては、日本の受賞作品で見ていない作品から見てみたい。
ちなみに、僕のようなアニメーション世界に疎い人間が日本作品をもっと味わいたいと思ったら、今回の記事に関連するところで、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門を参考にするのも一つの手だろう。こちらは1997年から始まったもので、これまでのアニメーション作品で優れたものが集まっているはずなのでその時のフィーリングでどれを見ても良いだろう。ただ、世界中から公募していることもあって最近は外国の方の作品も増えている。それでも比較的日本のアニメーションを取り上げている方だと思うので、参考にはなるはずだ。視点を変えると、それだけこの賞の価値が世界に認められてきたということでもあり、日本にとって大変喜ばしいことだ。(偉そうなことは言えないが)
文化庁メディア芸術祭のサイトでもこの芸術祭について以下のように述べている。
第22回は、世界102の国と地域から4,384点に及ぶ作品の応募がありました。文化庁メディア芸術祭は多様化する現代の表現を見据える国際的なフェスティバルへと成長を続けています。
第22回は西暦では2018年の回になりますね。100を超える国から応募があるとは、、、確かに国際的なフェスティバルといって良さそうだ。
これ以上脱線すると話にまとまりがなくなってしまうが、最後にもう一つ、この文化庁メディア芸術祭はアニメーション部門の他に、アート、エンターテインメント、漫画の部門もあるようだ。きになる人は調べてみるのも良いかもしれない。
リンクを載せておく。
ロストスコープ
この作品、よくみるアニメと描かれ方が違って独特だなと思っていたら、その手法にちゃんと名前があった。それがロストスコープ法である。WIkipediaでは、
モデルの動きをカメラで撮影し、それをトレースしてアニメーションにする手法。
と説明されている。
1919年に初めてのこの手法を用いた商業作品が制作されているので、以外にも古くから用いられてきた手法のようだ。ただ、その過程で進化してきてはいるのだろうが。
代表的な作品には「白雪姫」、「指輪物語」がある。
『ペンギン・ハイウェイ』を観て
アマゾン・プライムで『ペンギンハイウェイ』を視聴。
基本的な情報
『夜は短し歩けよ乙女』などで有名な森見登美彦さんの作品で2010年5月に角川書店から刊行。
第31回SF大賞受賞作。
2018年にスタジオコロリドによりアニメ映画化。
詳しくは知らないが、2017年の3月にAudibleにて安國愛菜さんによるナレーションがデータ配信されているそうだ。(WIkipedia参照)
あらすじ(の練習)
小学4年生のアオヤマ君が住む街に、突然ペンギンの群れが出現するという奇妙な現象が起こる。青山くんはこの謎を解くため調査に乗り出す。ある日、アオヤマ君が通う歯科医院に勤めるおっぱいが大きい”お姉さん”がペンギンを生み出す瞬間を目撃。彼女の正体は一体?そして森に現れた謎の球体をした”海”。彼は果たして謎を解明できるのか!?その結末やいかに!?
感想(ネタバレ)
(目標800文字程度)
この物語は”お姉さん”が実は人間ではなかったという所が絶妙であるし、主張したいことのトリガーとなっている。ファンタジーではあるけれど、一定の秩序を保ちつつバランスが取れていたので、作品で起こる出来事を素直に受け入れることができた。
ラストにアオヤマ少年からなされた主張、物語の全てがこの主張のために用意されたのだと感じた。もちろんそれに至るまでにも、印象に残る場面はいくつもあったし、純粋に物語を楽しむこともできた。それを差し引いてなお、この物語の全てがラスト2分に向けて進んでいたのだと思わざるを得ない。
「(略)世界の果てを見ることは悲しいことかもしれない〜」から始まるセリフをぜひ聞いてほしい。この言葉はアオヤマ君が表にこそ出さなかったものの愛してやまなかった”お姉さん”への想いである。そしてこれはとりもなおさず、すでに亡くなった人や疎遠になってしまった大切な人に想いを寄せた言葉そのものである。人が人を想って送る言葉として用いずに、実は人間ではなかった”お姉さん”に向けたメッセージであるところがこの作品の妙であると私は感じた。
そしてもう一つ、やたら理屈っぽい少年である彼が最後に残したこのセリフは、彼の「信念」である。このことにも深い感銘を受けた。大成する人間に必要なことを考えてみると、頭の回転が早いこと、論理的思考力が備わっていること、コミュニケーション能力に長けていることが私の場合はまず頭に浮かぶ。皆さんもこれにはある程度は納得いただけるだろう。しかし、最も大事な要素は彼のいう信念なのではないか。信念があって諦めなければ上述した能力は後から不格好ながらもついてくるのだ。仮に備わらなくとも周りの力を頼ることもできよう。
しかし、悲しいかな、少年は世界の果てを見て”お姉さん”に会えないという事実に辿り着く気がしてならない。もしかすると、少年自身すでに感じていながらも突き進むことしかできないのかもしれない。ただそれが信念というものだ。
あとがき
何を偉そうにあとがきなんてと自分で思ったが、しっかりとした文章にまとめただけだとそこに書けなかったけど書きたいこともあるな〜(モヤモヤ)と思ったので、ちゃんとした感想。ダラダラしたあとがき。って構成にしたいと思う。
試しに感想は原稿用紙2枚(800文字)程度で収めてみた。推敲しないと変な文章になっちゃうし、時間はかかるけど真剣に感想を書くというのも良いものだな。感覚としては勝負をしてる感じだ。心が燃えてきて誰よりもいい感想を書いてやる!みたいな。作品を見て思うことは人それぞれだけれど、何を思ったか、感じたかをうまく言葉にしたい!という強い気持ちがふつふつと湧き上がってくる感覚は最高かも。
今思うと小学校の時になんで読書感想文をもっと楽しまなかったんだろうと悔やまれる。当時はそれなりに真面目に取り組んではいたけれど、楽しめたかと言われるとそうでもなかった。今となってはこんなに楽しく感じるのに。不思議ですな。
さて作品の感想に戻ろう。感想ではアオヤマ君のことを理屈っぽいと書いたが、正直なところ周りからどう思われようとこういう少年でありたかった。真剣に人生を楽しんでるって気がする。いやいや笑、と思う人が大半かもしれない。僕が少しひねくれてるのかな笑。
物語とは違う視点では、映像が綺麗だったのが良かった。特に、”海”に飛び込んでからの世界観が素敵だった。一度体験してみたい、飛び込んでみたいよ、あんな世界があるものならば。いや、今の時代作れるぞ、VRの世界へ飛び込めば。
これで最後にしよう。この物語ではやたら「おっぱい」が「直接的に」強調されているが、ここに森見登美彦さんらしさがあるなー笑と思いながら観てました。おしまい。